与える人に、返ってくる:歴史に残る5つの恩返し

嵐が去った明治の漁村の浜で、村人たちが毛布にくるんだ外国の水兵を運ぶ様子を、手前の女子中学生が光るハートの浮かんだスマホを胸に、はっとした顔で振り返って見ている。「与える人」「95年後のお返しは?」の文字。

ランゲージ・ラボラトリーの小池です。

まなぶ君のダッシュボードに「みんなのおかげ」という欄があります。

テスト範囲の写真を上げてくれた人。問題のまちがいを見つけて知らせてくれた人。その名前が流れてきて、ハートを押すと、その人に10ptが届きます。

テスト範囲の写真を上げても、自分の点数は1点も上がりません。まちがいを報告しても同じ。それでもやってくれる塾生がいます。おかげで、同じ中学のみんながテスト範囲どおりに一問一答を解けるようになりました。

小池は、人に与える人が、最後には人から与えられると思っています。

きれいごとに聞こえるかもしれません。でも、歴史にはその証拠がちゃんと残っています。今日はその話を5つします。

目次

49年後、まわりの客席が一斉に立ち上がった

1939年、戦争が始まる直前のチェコ。

イギリスの若い株の仲買人だったニコラス・ウィントンは、ナチスの迫害から逃がすため、ユダヤ人の子ども669人を列車でイギリスへ送り出しました。里親を探し、書類をそろえ、お金を集めたのは、彼と仲間たちです。

そのことを、ウィントンは50年近く、だれにも話しませんでした。

1988年、イギリスのテレビ番組に招かれたウィントン。司会者が客席に聞きます。

「この中に、ウィントンさんに命を救われた人はいますか」

まわりの客席の人たちが、一斉に立ち上がりました。あのときの子どもたちです。

ウィントンは106歳まで生き、救った人たちとその家族から感謝を受け続けました。助けた子どもたちの子や孫まで数えると、今では数千人になるといわれます。

仕事を失った外交官を、28年後に待っていた人

1940年、リトアニアの日本領事館。杉原千畝のもとへ、ナチスから逃げてきたユダヤ人が押し寄せました。

日本を通って逃げるには、ビザ(入国の許可証)が要ります。杉原は本国に何度も問い合わせましたが、許可は出ません。

それでも杉原は、ビザを書き続けました。町を離れる列車が動き出すまで書き、2000枚をこえるビザで、6000人ほどが助かったといわれます。

戦後、杉原は外務省を辞めることになりました。

1968年、杉原は東京のイスラエル大使館に呼ばれます。待っていた外交官が見せたのは、すり切れた1枚の紙。28年前に杉原が書いたビザでした。彼は、あのときビザを受け取ったひとりでした。

そこから感謝の声が次々に届きます。1985年、杉原はイスラエルから「諸国民の中の正義の人」の称号を受けました。亡くなる前の年のことです。

12年後、台湾から200億円をこえる義援金

1999年、台湾で大きな地震が起き、2400人をこえる人が亡くなりました。

日本はすぐに救助隊を送り、阪神・淡路大震災のときに使った仮設住宅も届けました。

12年後の2011年、東日本大震災。台湾から届いた義援金は200億円をこえ、世界でも指折りの額になりました。

ウィントンや杉原は一人の人。こちらは国と国です。それでも、助けた人も助けられた人も、まだ同じ時代を生きているうちに返ってきました。

75年後、ワルシャワで待っていたお年寄りたち

1920年ごろ。ロシアの内戦のさなか、シベリアには、親を失ったポーランドの子どもたちが取り残されていました。

ポーランドの人たちの願いを受けて、日本赤十字社が765人を船で日本へ運びます。病気の手当てをして、元気になった子どもたちを祖国へ送り返しました。

75年後の1995年、阪神・淡路大震災。

ポーランドは、被災した日本の子どもたちを、その年と次の年に30人ずつ、3週間招きました。費用はポーランドの人たちが出しました。

ワルシャワでは、あのとき日本に助けられた元孤児のお年寄りたちが駆けつけ、子どもたち一人ひとりにバラを1輪ずつ手渡しました。

助けた日本赤十字社の人たちは、もうこの世にいません。返してもらったのは、何も知らない次の世代の子どもたちでした。

95年後、テヘランの空港に来た飛行機

1985年、イラン・イラク戦争のさなか。

イラクが「48時間後から、イランの上を飛ぶ飛行機はすべて撃ち落とす」と宣言しました。首都テヘランにいた外国人は、自分の国の飛行機で次々に脱出していきます。

ところが日本人だけは、迎えの飛行機が来ません。安全が保証されないため、日本の飛行機は飛べませんでした。200人をこえる日本人が、空港に取り残されました。

予想してみよう。このとき、日本人を乗せてくれたのは、どこの国の飛行機だったと思いますか?

答えを見る

答えは、トルコ。トルコ航空の飛行機が2機飛んできて、日本人215人を乗せて脱出させてくれました。撃ち落とされる期限の、ほんの少し前のことでした。

なぜトルコが、日本人を?

話は95年前にさかのぼります。

1890年、オスマン帝国(今のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が、和歌山県串本の沖で台風にあって沈みました。600人をこえる乗組員のうち、助かったのは69人。

大島の村人たちは、嵐の中、がけの下から生き残った人を運び上げ、体温で温めました。自分たちの食べ物も乏しいなか、蓄えていたさつまいもや、非常用のニワトリまで出して手当てをしました。

トルコでは、この話が教科書に載り、語り継がれてきました。のちに駐日トルコ大使は、エルトゥールル号の恩をトルコの人は忘れていなかったのだ、と語っています。

串本の村人たちは、95年後に自分たちの国の人が助けられるとは、思ってもいなかったはずです。

5つの話を並べてみる

与えた人与えたこと返ってきたこと何年後
ウィントン子ども669人を列車で逃がした(1939年)救われた人たちが客席で立ち上がった(1988年)49年
杉原千畝許可が出ないままビザを書き続けた(1940年)ビザを受けた人が会いに来た(1968年)28年
日本台湾の地震に救助隊と仮設住宅(1999年)東日本大震災に200億円をこえる義援金(2011年)12年
日本赤十字社ポーランドの孤児765人を保護(1920年ごろ)被災した子どもを招いてバラを手渡した(1995年)75年
串本の村人沈んだ軍艦の69人を手当て(1890年)トルコの飛行機が日本人215人を救った(1985年)95年

並べてみると、共通点が3つ見えてきます。

1つ目。見返りを数えて与えた人は、ひとりもいません。 ウィントンは50年黙っていました。串本の村人は、トルコがどこにあるかもよく知らなかったかもしれない。目の前に困っている人がいたから、助けただけです。

2つ目。返してくれたのは、助けた本人とは限りません。ポーランドの元孤児が返した相手は、日本赤十字社の人ではなく、阪神の子どもたち。トルコが助けたのも、串本の村人ではなく、テヘランにいた日本人でした。恩は人から人へ、世代から世代へ渡っていきます。

3つ目。返ってくる時期は選べません。12年のこともあれば、95年のこともあります。

それでも、返ってきました。人は、助けてもらったことを忘れないからです。そして「あの人は助けてくれた」という話は、その人がいないところで語られ、広がっていきます。

塾長 小池

与えた人のまわりには、「この人のためなら」と思う人が増えていきます。小池は、これが返ってくる仕組みだと思っています。

与えるだけの人は、うまくいかない

ここで1つ、大事な注意があります。

アメリカの心理学者アダム・グラントは、人を「与える人」「受け取る人」「損得をそろえる人」の3つに分けて、仕事の成績を調べました。

いちばん成績がよかったのは、与える人でした。ところが、いちばん成績が悪かったのも、与える人でした。

違いは、自分を大事にしているかどうか。頼まれたことを全部引き受けて、自分の仕事が終わらない人は、すり減って沈んでいきます。上に行く与える人は、自分のやるべきことをやったうえで、人のためになることをしていました。

この話は『GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代』(アダム・グラント、三笠書房)にくわしく書かれています。「いい人は損をする」と思っている人ほど、読むと考えが変わる1冊です。与える人がなぜ上に行くのか、どうすれば沈まずに与えられるのかが、たくさんの調査とエピソードで分かります。

皆さんでいえば、自分の勉強を削ってまで人の世話をする必要はありません。自分の勉強はきっちりやる。そのうえで、少しの手間でみんなが助かることをする。それで十分です。

塾の中でできる、小さな「与える」

まなぶ君でできる「与える」は、どれも小さなことです。

  • 学校でもらったテスト範囲の紙を、写真に撮って上げる
  • 一問一答で、答えや解説のまちがいを見つけたら知らせる

テスト範囲の写真は、撮って上げるまで1分もかかりません。でもその1分で、同じ中学の全員が、自分のテスト範囲に合わせて一問一答を解けるようになります。

そして、まなぶ君ではすぐに返ってきます。上げた人の名前は「みんなのおかげ」に流れ、ハートが1つ届くたびに10pt。12年も95年も待つ必要はありません。

もっと大事なのは、ポイントではない部分です。「あの人が上げてくれたから助かった」と思った人が、次は自分が上げる側に回る。そうやって、塾の中に与える人が増えていきます。

まとめ

  • 人に与えた人には、12年後、28年後、95年後に、思いもしない相手から返ってきた
  • 見返りを数えて与えた人はいない。返ってくる相手も時期も選べない
  • ただし、自分をすり減らす与え方はしない。自分の勉強をやったうえで、少しの手間でみんなを助ける
  • テスト範囲の写真を上げる、まちがいを知らせる。塾の中の「与える」は1分でできる

与える人が増えるほど、みんなが強くなる。そういう塾にしていきたいと思っています。

この記事を書いた人

小池哲平のアバター 小池哲平 ランゲージ・ラボラトリー塾長

ランゲージ・ラボラトリー塾長、東進衛星予備校 館山校オーナー。安房郡白浜町(今の南房総市白浜町)に生まれ、白浜中から安房高校へ。高2で学年82人中81位まで落ちたところから、浪人して慶應義塾大学経済学部に合格しました。リクルートで4年働いたあと2011年に1993年開校の塾を先代から引き継ぎ、2015年から館山で小中学生を教えています。2026年卒の中学3年生は30名中8名が学年1位。志学館高校のSS特待には3年続けて合格者を出しています(2024年4名・2025年5名・2026年6名)。東進館山校は2026年の共通テストで平均+218.4点(千葉県内1位)。館山・南房総の高校入試を、塾で見てきた事実と数字で書いています。
塾長のプロフィール ランゲージ・ラボラトリーについて

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