千円札の文豪は、英語の先生だった。夏目漱石と英単語

夏目漱石が、ロンドンの下宿の机で、開いた分厚い辞書と本を前に、ペンで単語をノートに書き留めている

ランゲージ・ラボラトリーの小池です。

まなぶ君の大学入試の英単語のページで、分厚い辞書を開き、ペンで単語をノートに書き留めている人。夏目漱石(なつめ そうせき)です。

『坊っちゃん』『吾輩は猫である』を書いた作家。1984年から2004年まで、千円札の顔でもありました。でも漱石は、作家になる前、英語の先生でした。今日は漱石と英語の話をします。

目次

漢文が好きな少年、英語の塾に入り直す

明治の家の座敷で、十代の夏目金之助が英語の教科書を手に持ちながら、机に積んだ古い漢文の本を名残惜しそうに見つめている。「好きな漢文を、 いったん置く」の文字。

漱石は1867年、江戸の牛込(今の東京都新宿区)に生まれました。本名は夏目金之助。生まれてすぐ養子に出され、しばらくは塩原という家の子として育っています。

子どものころ好きだったのは、漢文(中国の古典)。漢学の学校、二松学舎に入ります。

ところが明治の世の中で大学に進むには、英語が欠かせません。金之助は漢学の学校を1年でやめ、16歳で英語を教える塾(成立学舎)に入り直しました。

塾長 小池

好きなことをいったん横に置いて、必要なものを取りにいった。英語の人・漱石は、ここから始まります。

「漱石」という名前の、ちょっと変わった意味

明治の学生の下宿で、若いころの夏目漱石が筆と紙を前に腕を組み、口をとがらせてむっとしている。「「漱石」って、 どういう意味?」の文字。

1884年、大学予備門(今の東京大学の入り口にあたる学校)に入学。同じころ、同じ学校には南方熊楠もいました。

ここで俳句の正岡子規と出会い、親友になります。子規が書いた文集に、金之助が漢文で感想を書いたとき、はじめて「漱石」と名乗りました。

予想してみよう:「漱石」とはどんな意味?

塾長 小池

ヒント:「漱」は、口を「すすぐ」という字です。

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答えは、負けおしみが強い、がんこ者。

中国の古い歴史書『晋書』の話です。孫楚という人が「石を枕にし、川の流れで口をすすぐ(自然の中で暮らしたい)」と言うつもりで、「石で口をすすぎ、流れを枕にする」と言いまちがえました。

友だちに笑われると、「石で口をすすぐのは歯をみがくため。流れを枕にするのは耳を洗うためだ」と言い返した。ここから「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」は、負けおしみの強い人のたとえになりました。

自分のペンネームに「がんこ者」を選ぶ。漱石は、自分の性格をよくわかっていたのかもしれません。

総理大臣の誘いも、博士号も、ことわる

名前どおり、漱石は本当にがんこでした。

1907年、総理大臣の西園寺公望が、有名な作家たちを招いて話を聞く会を開きます。招かれた漱石は、俳句を1つ書いてことわりました。「時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半ばに出かねたり」。ほととぎすが鳴いているけれど、トイレの最中なので出ていけません、という意味です。総理大臣の誘いを、トイレを理由にことわったのです。

1911年には、文部省が漱石に「文学博士」の称号を贈ると決めました。漱石は「これからも、ただの夏目なにがしとして暮らしたい」と手紙を書いて辞退します。文部省は「もう決まったことなので、辞退はできない」。漱石は「受け取らない」。話は平行線のまま、漱石は最後まで博士とは名乗りませんでした。

肩書きや世間の物差しより、自分の物差し。このがんこさは、このあと出てくるロンドンでの話につながっていきます。

英文科へ進み、英語の先生になる

明治の木造の教室で、夏目漱石が英語の本を開き、チョークを持った手で黒板を指して夢中で教えている。後ろで生徒たちが聞いている。「松山で、 中学生に英語」の文字。

1890年、帝国大学(今の東京大学)の英文科に入学。英語で書かれた文学を学ぶ学科です。

なぜ英語の先生に?

実は漱石、最初は建築家になろうとしていました。世の中の役に立ち、しかも芸術でもある仕事だからです。ところが大学予備門の友だち・米山保三郎に、「日本でいくら腕をふるっても、ロンドンのセント・ポール大聖堂のような建物は残せない。文学なら何百年も残る」と言われ、文学に進路を変えます。

好きだったのは漢文です。それでも選んだのは英文学でした。英文学も漢文学と同じように、一生をかけて学ぶ値打ちのあるものだろう。のちに漱石は、そう考えて英文科に入ったと書いています。明治の日本で求められていたのも、英語でした。

英文科を出た人の仕事は、当時はほとんどが英語の先生です。英語を教えられる人は少なく、引く手あまたでした。松山中学での漱石の月給は80円で、校長先生より高かったといわれます。

卒業すると、英語の教師として東京から愛媛の松山中学(1895年)へ、さらに熊本の第五高等学校(1896年)へ移ります。

松山で中学生に英語を教えた1年は、のちに小説『坊っちゃん』のもとになりました。主人公の「おれ」は、四国の中学校に来た数学の先生です。

『坊っちゃん』って、どんな話?

主人公の「おれ」は、東京生まれのまっすぐな青年です。書き出しは「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」。家では厄介者あつかいで、かわいがってくれたのは、お手伝いさんの清(きよ)だけでした。

四国の中学校に数学の先生としてやってきたおれは、同僚にどんどんあだ名をつけていきます。

あだ名どんな人
狸校長
赤シャツ教頭。口がうまく、裏で人を動かす
野だいこ赤シャツにこびる美術の先生
うらなり気の弱い英語の先生
山嵐正義感の強い数学の先生

生徒には黒板に「天麩羅先生」と書かれ、宿直の夜は布団にバッタを入れられる。さらに赤シャツは、うらなりの婚約者「マドンナ」を横取りし、うらなりを遠くの学校へ追いやります。最後におれと山嵐は、赤シャツと野だいこを待ち伏せして生卵をぶつけ、学校をやめて東京へ帰ります。

120年前の小説なのに、今読んでもテンポがよく、スカッとします。それでいて、まっすぐな2人は仕事を失い、赤シャツは教頭のまま。正直者が、世渡りのうまい人に負けるほろ苦い話でもあります。肩書きより自分の物差しを通すおれは、がんこ者・漱石そのものです。

作中の松山は「野蛮な所」とさんざんな書かれ方ですが、今の松山は「坊っちゃん列車」「坊っちゃん団子」と、町ぐるみの看板にしています。

『坊っちゃん』は著作権が切れていて、青空文庫で無料で読めます。

塾長 小池

赤シャツや野だいこのような人、皆さんのまわりにもいませんか。100年たっても、人はあまり変わらない。だから今も読まれています。

ロンドンで、本と辞書にうもれる

霧の夜のロンドンの小さな下宿で、夏目漱石が床にもベッドにも積み上がった英語の本の中、目の下にくまを作って疲れきった顔でほおづえをついている。皿には小さなパンがひと切れ。「食事を減らして、 本を買う」の文字。

1900年、漱石は33歳で、国から「英語の研究のため、2年間イギリスへ行け」と命じられます。国のお金で行く留学(官費留学)です。

ロンドンは物価が高く、漱石は国への報告に「この留学費では生活が苦しい」と書いています。それでも食べるものを切りつめて、英語の本を買い込んだといわれています。

大学の講義はまもなく聞くのをやめ、シェイクスピアの研究者クレイグ先生の個人授業を受けることにしました。あとは下宿の部屋にこもって、英語の本を読み、ノートを取る毎日です。

無理がたたって、心がすっかり疲れてしまう神経衰弱になり、日本には「夏目は気がおかしくなった」といううわさが届いたほどでした。1903年1月、日本に帰ります。

塾長 小池

まなぶ君のバナーの絵は、このロンドンの下宿の机です。辞書をひき、単語を書き留める。漱石が2年間くり返したことです。

ロンドンでつかんだ「自己本位」

漱石は、自分から望んでロンドンへ行ったのではありません。国に「行け」と言われて行きました。そこで大きな壁にぶつかります。イギリスの評論家がいいと言うものを、いいと言って覚える。それは他人の物差しを借りているだけで、自分の考えではない。英文学とは何なのか、読めば読むほど分からなくなっていきました。

苦しんだ末に漱石がつかんだのが、「自己本位」という言葉です。人のまねではなく、自分の頭で考えて、自分の物差しで決める。漱石はのちに講演『私の個人主義』(1914年)で、この言葉を手にしてから強くなれた、と話しています。小説家・漱石は、その先に生まれました。

塾長 小池

漱石は、好きな漢文ではなく、求められていた英語を選びました。行けと言われてロンドンへ行き、苦しみ抜いた先で、自分の物差しを見つけた。「好きなことをやれ」より、「求められていることをやり切れ。本当の好きはその中で見つかる」。小池はそう思います。

英語の先生から、小説家へ

明治の家の書斎で、着物姿の夏目漱石が書き上げた原稿用紙の束を持ち、机の上に座る猫を見てうれしそうに笑っている。「最初の小説は、 猫が主人公」の文字。

帰国した漱石は、東京帝国大学で英文学を教える先生になります。前の先生は、『怪談』を書いた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)でした。

予想してみよう:漱石が最初の小説を発表したのは何歳?

塾長 小池

ヒント:デビュー作は『吾輩は猫である』です。

答えを見る

答えは、37歳。1905年1月、俳句の雑誌『ホトトギス』に、1回だけの読み切りとして『吾輩は猫である』が載りました。

これが評判になって続きを書くことになり、翌年には『坊っちゃん』。1907年には大学をやめて朝日新聞社に入り、新聞に小説を連載する作家になります。『三四郎』『それから』『こころ』と書き続け、1916年、49歳で亡くなりました。

作家でいたのは、わずか12年ほど。それでも100年以上読まれ続けています。英語の先生として読みためてきたものが、全部そこに生きていました。

教科書にはこう載っている

明治時代には、欧米の文化を取り入れながら、新しい日本の文学が生まれた。話し言葉に近い文体で小説を書く動きが広がり、夏目漱石は『坊っちゃん』『吾輩は猫である』などを書いた。

同じころ、ドイツに留学した森鴎外も『舞姫』などを書き、漱石とならぶ明治の作家となった。

「浪漫」は、漱石が当てた字

英語の言葉を日本語にしようとしても、ぴったりの言葉がないことがあります。

漱石は、英語の romantic(ロマンチック)の「ロマン」に、「浪漫」という漢字を当てました。1911年の講演で、「ちょうどいい訳がないので、自分で当てた」と話しています。

英語と漢文の両方を知っているから出てきた言葉は、ほかにもたくさんあります。

もとの言葉漱石の日本語どこで
英語の romantic浪漫講演
英語のことわざ Pity’s akin to love(あわれみは恋に近い)可哀想だた惚れたって事よ『三四郎』
シェリーの英語の詩「ひばりに寄せて」前をみては、後(しり)えを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ『草枕』
漢文の対句(同じ形の文を並べる)智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。『草枕』の書き出し
漢文の読み下しに出てくる、いばった一人称吾輩は猫であるデビュー作

『三四郎』では、友だちの与次郎が英語のことわざを「可哀想だた惚れたって事よ」と訳してみせ、先生に「下劣だ」とたしなめられます。英文を正確に読んだうえで、江戸っ子のくだけた口調に落とす。英語が読める人、日本語の口調を自在に使える人はそれぞれいても、両方を一度にやれる人はめったにいません。

『草枕』では、英語の詩を、和歌のような五七のリズムの文語に訳し直しています。書き出しの3文は、漢文の得意な「対句」の形です。

「吾輩」は、漢文の読み下しに出てくるような、いばった言い方です。それを名前もない猫に言わせるから、おかしい。中身は、人間の社会を外から皮肉る、イギリスの風刺小説の流れにあります。漢文の笑いと、イギリスの笑いのかけ合わせでした。

漱石は最後まで両方を手放しませんでした。晩年、小説『明暗』を書いていたころは、午前に小説を書き、午後に漢詩を作る毎日。晩年の理想を表した言葉「則天去私(天に則(のっと)り、私を去る)」も、漢文の四字熟語の形です。

英語と漢文。子どものころから両方を学んできた漱石だから、できた仕事でした。

ちなみに「I love you を『月がきれいですね』と訳した」という話は有名ですが、漱石が書いたものの中には見つかっていません。話は話として楽しみ、本当かどうかは確かめる。それも勉強です。

「肩が凝る」という言い方を漱石が始めた、という話もよく聞きますが、これも確かな根拠は見つかっていません。

漱石の勉強法:「辞書を引かずに、たくさん読め」

漱石は1911年、学生向けの雑誌に「語学養成法」という文章を書いています。そこで言っているのは、こういうことです。

漱石のすすめ
ある程度まで学んだら、辞書を引かずに、英語の本をどんどんたくさん読むのがいい。わからないところは飛ばしてかまわない。読み進めるうちに、前後から自然とわかってくる。

大事なのは、最初の「ある程度まで」です。知らない単語だらけの英文は、飛ばしようがありません。

ロンドンで辞書をひき、単語を書き留めた日々があったから、漱石は辞書なしで読めるところまで行けました。

反対に、わからない単語をすぐ検索してしまうのも、もったいない。前後から意味を考える機会を、自分で手放しているからです。

いいのは、「推測してから、確かめる」順番です。まず「たぶんこういう意味」と見当をつける。そのあとで調べて、合っていたか確かめる。

当たれば自信になり、外れればそのずれが記憶に残ります。日本語の知らない言葉も、私たちはこうやって覚えてきました。

やってみよう:漱石の単語ノートをまねる

漱石のまねは、ノート1冊からできます。

  1. まなぶ君の英単語で、まちがえた単語を3つ選ぶ
  2. ノートに「英単語・意味・例文」を1つずつ書き留める(例文はまなぶ君の解説から写してよい)
  3. 1週間後、ノートの意味の部分をかくして、言えるか試す

たとえば
romantic ロマンチックな、空想的な
漱石はこれを「浪漫的」と書いた。

塾長 小池

手で書くと、1つの単語に止まる時間が長くなります。漱石の机の上と同じです。

もっと深く:コテンラジオで聞く

夕方、車の後部座席で館山中の制服を着た中学生がイヤホンで歴史のポッドキャストを聞き、頭の上に鎧の武士や着物の女性、城の場面が浮かんで、目を輝かせている挿絵

コテンラジオ(COTEN RADIO)は、歴史が大好きな深井龍之介ふかいりゅうのすけさん・ヤンヤンさんと、歴史が苦手な樋口さんの3人が、1人の人物を何回にも分けてじっくり語る歴史のポッドキャストです。教科書では1行で終わる出来事の裏にある、人間くさい話が聞けます。

夏目漱石のシリーズは、コテンラジオにはまだありません。代わりに「日露戦争編」(全16回)を勧めます。漱石がロンドンから帰り、『吾輩は猫である』を書いたのは、ちょうど日露戦争のさなか(1904〜1905年)でした。欧米に追いつこうと必死だった明治の日本の空気が分かると、国に命じられてロンドンへ行った漱石の重さも見えてきます。小さな国だった日本が、なぜ大国ロシアと戦うことになったのか。戦争のお金集め(11回目)まで含めて、戦いの裏側が分かるシリーズです。

まずは1回目だけ聞いてみてください。おもしろければ、次の回が勝手に聞きたくなります。

聞くなら Voicy(アプリでもブラウザでも聞けます)がおすすめです。YouTube のように次のおすすめ動画が画面に出てこないので、気が散らずに話だけを追えます。ほかのアプリで聞くなら、Apple Podcasts/Spotifyでも聞けます。

音だけなので、通学の車の中や、寝る前の時間にそのまま聞けます。画面を見なくていいのが、ラジオのいいところです。

大学入試の英単語は、辞書なしで読むための準備

まなぶ君の大学入試の英単語には、LEAP、ターゲット1900、鉄壁、英熟語ターゲット1000が入っています。

大学入試の英語は、長い英文をたくさん読ませる試験です。知らない単語のたびに止まっていたら、時間が足りません。単語を覚えるのは、漱石の言う「辞書を引かずに、たくさん読む」ところまで行くためです。

辞書をひき、単語を書き留める。まずは今日の1回分から。

この記事を書いた人

小池哲平のアバター 小池哲平 ランゲージ・ラボラトリー塾長

ランゲージ・ラボラトリー塾長、東進衛星予備校 館山校オーナー。安房郡白浜町(今の南房総市白浜町)に生まれ、白浜中から安房高校へ。高2で学年82人中81位まで落ちたところから、浪人して慶應義塾大学経済学部に合格しました。リクルートで4年働いたあと2011年に1993年開校の塾を先代から引き継ぎ、2015年から館山で小中学生を教えています。2026年卒の中学3年生は30名中8名が学年1位。志学館高校のSS特待には3年続けて合格者を出しています(2024年4名・2025年5名・2026年6名)。東進館山校は2026年の共通テストで平均+218.4点(千葉県内1位)。館山・南房総の高校入試を、塾で見てきた事実と数字で書いています。
塾長のプロフィール ランゲージ・ラボラトリーについて

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