大負けを読み返して、最後に勝つ。徳川家康の長期戦

夜の城の畳の部屋で、灯りのそばに傷ついたよろいを置いた徳川家康が、古い和とじの記録を開き、くちびるをかんで悔しさをこらえながら読みこんでいる。「人質13年、31歳で大負け」「徳川家康 負けを読み返す」「最後に天下を取った理由」の文字。

ランゲージ・ラボラトリーの小池です。

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戦国時代を終わらせた3人といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とくがわいえやす。このうち、天下を取るのがいちばん遅かったのが家康です。将軍になったのは62歳。信長が本能寺で亡くなったのは49歳、秀吉が亡くなったのは62歳ですから、ほかの2人ならもう人生が終わっている年です。

しかも家康は、勝ち続けてきた人ではありません。子どものころは人質。若いころには、戦で大負けしています。それでも最後に勝ち残ったのは、負けを読み返し、長い勝負を最後まで戦い抜いたからでした。

年(年齢)出来事勝ち負け
1547年
(6歳)
人質として織田家へ負け
1549年
(8歳)
今川家の人質として駿府すんぷ(今の静岡市)へ。19歳まで負け
1560年
(19歳)
桶狭間おけはざまの戦いのあと、ふるさとの岡崎へ戻る上がる
1572年
(31歳)
三方ヶ原みかたがはらの戦いで武田信玄たけだしんげんに大負け大負け
1575年
(34歳)
長篠の戦いで、信長と組んで武田軍を破る勝ち
1582年
(41歳)
本能寺の変。旅先から命がけで逃げ帰るピンチ
1598年
(57歳)
秀吉が亡くなる待つ
1600年
(59歳)
関ヶ原の戦いに勝つ勝ち
1603年
(62歳)
征夷大将軍になり、江戸幕府を開く頂点
1615年
(74歳)
大阪の陣で豊臣家がほろびる勝ち
1616年
(75歳)
駿府で亡くなる最期

年齢は、当時の数え方(数え年。生まれた年を1歳とし、正月ごとに1つ増える)です。

今日は、この表の「負け」と「待つ」のところを中心に書きます。家康が負けた日をどう扱ったか。そこに、テストの×をどう生かすかのヒントがあると、小池は思っています。

目次

6歳から19歳まで、人質だった

夕暮れの駿府の武家屋敷の縁側で、少年時代の徳川家康(竹千代)が書物をひざに置き、さびしそうに遠くの富士山と夕焼けの空を見つめている。「家を離れて13年」の文字。

家康は1542年の暮れ、三河(今の愛知県の東部)の岡崎城で、小さな大名・松平家の跡取りとして生まれました。子どものころの名前は竹千代たけちよです。

このころの松平家は、西の織田家と東の今川家という2つの強い家にはさまれていました。小さな家が生き残るには、強い家の味方になるしかありません。その「約束の保証」として差し出されたのが、跡取りの竹千代でした。

予想してみよう:竹千代が人質だったのは、合わせて何年?

塾長 小池

ヒント:6歳で家を出て、ふるさとに戻れたのは19歳です。

答えを見る

答えは、およそ13年。

6歳で今川家へ送られる途中、味方のはずの武将に裏切られて織田家へ連れて行かれたと伝わります。名古屋の熱田で2年ほど過ごしました。8歳からは今川家の人質として駿府へ。そこで19歳まで、11年ほど暮らします。

人質と聞くと、牢に閉じこめられていたように思うかもしれません。でも駿府での竹千代は、今川家の大事な客として育てられました。今川家は京都の文化を取り入れた、当時の東日本でも指折りの文化の町をつくっていた家です。

竹千代は駿府で、今川家の軍師でもあった僧・太原雪斎たいげんせっさいから学問を教わったと伝わっています(はっきりした記録は少なく、言い伝えに近い話です)。今の駿府城公園には、少年時代の家康の勉強部屋を再現した「竹千代手習いの間」があります。

自分の家を離れ、よその家の都合で暮らす13年。思いどおりにならない時間でした。でも家康は、強い家のやり方を、いちばん近くで見て学べる場所にいたとも言えます。

塾長 小池

人質の13年は、家康にとっての「留学」だったのかもしれません。負けている側にいるときほど、勝っている側のやり方がよく見えます。

31歳の大負け:三方ヶ原の戦い

冬の夕暮れの枯れ野原を、よろい姿の若い徳川家康が馬で駆けて城へ逃げ帰りながら、悔しさに歯を食いしばっている。「わずか2時間で、大負け」の文字。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれます。家康はこのすきに岡崎へ戻り、やがて信長と手を組みました。ここから家康は、少しずつ自分の国を広げていきます。

そこへ立ちはだかったのが、甲斐(今の山梨県)の武田信玄です。戦国最強とも言われた武田軍が、家康の国に攻めこんできました。

1572年の冬(今のこよみでは1573年1月)、家康は浜松城の近くの三方ヶ原で、武田軍とぶつかります。まわりの家臣は「城にこもったほうがいい」と止めたとも伝わります。それでも家康は城を出て戦い、わずか2時間ほどで大負けしました。多くの家臣が討たれ、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰ります。

負けた顔の絵は、本当に描かせたのか

この負けには、有名な話があります。名古屋の徳川美術館にある、顔をしかめて片足を組んだ家康の絵(「しかみ像」と呼ばれます)。「家康が三方ヶ原の負けを忘れないように、負けた直後の情けない姿を描かせ、そばに置いて戒めにした」という話です。

予想してみよう:この話、どこまで本当?

塾長 小池

ヒント:絵が本物かどうかと、「三方ヶ原のあとに描かせた」という話が本当かどうかは、別のことです。

答えを見る

答えは、絵は本物だけれど、三方ヶ原と結びつける話は、ずっとあとの時代につくられたものらしい。

徳川美術館の研究者が調べたところ、この絵は江戸時代の中ごろに、紀州の徳川家から尾張の徳川家へ、お嫁入りの道具として渡ってきたものでした。そして「三方ヶ原の負けを描かせた」という話は、昭和11年(1936年)より前の記録にはさかのぼれないことが分かっています。

小池はこの話がけっこう好きです。有名な話でも、確かめると違うことがある。「みんなが言っているから本当」とは限らない。歴史を読むときの、いちばん大事な練習になります。

では、家康は三方ヶ原の負けから何も学ばなかったのか。そんなことはありません。それは絵ではなく、その後の行動に残っています。

出典:徳川美術館の学芸員・原史彦さんの研究を紹介した記事(和樂web「しかみ像」、幻冬舎ゴールドオンラインほか)

負けた相手から学ぶ

三方ヶ原のあと、信玄は病気で亡くなり、武田軍は引き上げます。家康は信長と組んで、1575年の長篠の戦いで武田勝頼の軍を破りました。

そして1582年、武田家がほろびます。このとき家康がしたことが、とても家康らしいところです。

家康がしたことどういうことか
武田家の家臣を、たくさん自分の家来にした自分を大負けさせた軍のやり方を知っている人たちを、敵として追い払わずに迎え入れた
若い家臣・井伊直政いいなおまさに、武田の家臣たちをまとめさせた武田軍の中でも強かった、よろいも旗も赤一色の部隊「赤備え」を受け継がせた
「井伊の赤備えあかぞなえ」は、徳川軍の主力のひとつになったこの部隊は、江戸時代の終わりまで続いた

自分を負かした相手を、うらんで終わりにしない。どうして負けたのか、相手は何が強かったのかを、相手の家来ごと取りこんで学んだわけです。

塾長 小池

負けた相手は、いちばんの先生です。テストでいえば、×がついた問題こそ、自分に足りないものを教えてくれる問題です。

教科書にはこう載っている

1575年、織田信長と徳川家康の連合軍は、大量の鉄砲を有効に使って、甲斐の武田勝頼の軍を破った(長篠の戦い)。

1582年、信長は家臣の明智光秀にそむかれ、京都の本能寺で自害した(本能寺の変)。

昔の記録を読みこんで、幕府をつくる

書物が山積みになった書院の部屋で、年をとった徳川家康が古い和とじの記録を開き、身を乗り出して夢中で読んでいる。「400年前の記録を読む」の文字。

家康が好んで読んでいた本があります。吾妻鏡あづまかがみ。源頼朝が兵を挙げた1180年から、鎌倉幕府のおよそ90年の出来事を、年月日の順に書き残した記録です。

武士が初めて自分たちの政府(幕府)をつくり、どう治め、どこでつまずいたか。成功も失敗も、そのまま書いてある本です。家康はこれを愛読し、それまで手で書き写した本しかなかった『吾妻鏡』を、活字で印刷して世に出しました(伏見版)。

つまり家康は、幕府をつくる前に、400年前の幕府の記録を読みこんでいたわけです。自分の負けだけでなく、先輩たちの成功と失敗まで、記録で学んでいました。

1600年、関ヶ原の戦いに勝った家康は、1603年に征夷大将軍になり、江戸に幕府を開きます。大名を親藩・譜代・外様に分けて配置し、決まりで大名をしばる。鎌倉の幕府の成功と失敗を読みこんでいた人らしいつくり方だと、小池は思います。江戸幕府は、ここから260年あまり続きました。

教科書にはこう載っている

1600年、徳川家康は関ヶ原の戦いで石田三成らを破り、全国の支配を固めた。1603年に征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。

幕府は大名を、徳川家の一族の親藩、古くからの家臣の譜代大名、関ヶ原の戦いのころから従った外様大名に分けた。1615年には武家諸法度ぶけしょはっとを定めて、大名を統制した。

長生きも実力のうち

日の当たる縁側で、年をとった徳川家康が舟の形の道具で薬草をすりつぶし、できた薬を見てにっこり笑っている。まわりに干した薬草とかごが並ぶ。「体を整えるのも、実力」の文字。

ここで、最初の表をもう一度見てください。家康が天下を取れたのは、強かったからだけではありません。

予想してみよう:秀吉が亡くなったとき、家康は何歳だった?

塾長 小池

ヒント:関ヶ原の戦いは、その2年後です。

答えを見る

答えは、57歳。

秀吉が亡くなったとき、家康はもう57歳でした。関ヶ原が59歳、将軍が62歳、豊臣家がほろびる大坂の陣が74歳。もし家康が秀吉と同じ年で亡くなっていたら、江戸幕府はできたばかりで、豊臣家もまだ大阪に残っていました。

家康の最後の勝ちは、相手より長く、元気でいたことで手に入ったものでした。そして家康は、それを運まかせにしませんでした。

家康がしていたこと伝わっていること
薬の本を読む中国の薬の本『和剤局方わざいきょくほう』などを読みこんだ
薬を自分で調合する医者に作らせるだけでなく、自分でも薬を調合した。久能山東照宮(静岡市)には、家康が調合したとされる薬の入った壺が残っている
体を動かす鷹狩たかがりを好み、年をとっても野山に出かけた
食べすぎないふだんは麦の入ったご飯など、ぜいたくをしない食事だったと伝わる

天下を取る勝負は、何十年もかかる長い試合でした。長い試合では、体を整えることも実力です。

受験も同じです。中3の1年間、高校の3年間と、勉強も長い試合になります。今の中学生にとって、家康の薬と鷹狩りにあたるのは、まず睡眠です。夜おそくまで起きて机に向かっても、次の日の授業でぼんやりしていたら、取り返すのにまた時間がかかります。

教科書にはこう載っている

1614年と1615年の2度にわたって、家康は大阪城を攻め、豊臣氏をほろぼした(大阪の陣)。

やってみよう:負けた答案を記録し直す

夜の自分の部屋の机で、館山中の制服の中学生が返ってきたテストを横に置き、口をとがらせてむっとしながらもノートに間違えた問題を書き直している。「×の1問を、4行で書く」の文字。

家康の負けの生かし方は、2つにまとめられます。負けた相手から学ぶこと。そして、記録を読み返すこと。今日は、そのまねをしてみます。

用意するのは、いちばん最近返ってきたテストだけです。

  1. ×がついた問題を1つだけ選ぶ
  2. ノートに4行で書く:①問題(短く)②自分が書いた答え ③正しい答え ④なぜ間違えたか(1行)
  3. 3日後に、答えを隠してもう一度解く

たとえば
①問題:江戸幕府を開いたのは何年?
②自分の答え:1600年
③正しい答え:1603年
④なぜ:関ヶ原の戦い(1600年)と、将軍になった年をごちゃまぜにしていた

いちばん大事なのは④です。「なぜ間違えたか」を1行で書けると、同じ間違いを二度としにくくなります。負けた日に何が起きたかを書き残すのは、家康が『吾妻鏡』を読んでいたのと同じことです。

塾長 小池

もうひとつのまね:テストの前の日は、いつもより30分早く寝る。長い試合を戦う人は、体を整えるところから勝負しています。

家康に会える漫画

休日の明るいリビングのソファで、部屋着の中学生が歴史漫画を両手で持ち、夢中になってページをめくっている。「人質から将軍まで一気に」の文字。

家康の一生をもっと知りたくなったら、漫画が近道です。小学生向けの学習まんがは2冊。どちらか1冊で、一生がひと通りつかめます。

学習まんがで一生を追う

小学館版 学習まんが人物館 徳川家康は、人質の竹千代から江戸幕府までを1冊で追える伝記まんがです。戦国時代の研究で知られる小和田哲男さんが監修しています。小学校中学年から。

監修:小和田哲男、まんが:小林たつよし(小学館)

角川まんが学習シリーズ まんが人物伝 徳川家康は、日本史の研究者・山本博文さんが監修した伝記まんがです。信長・秀吉とのかかわりを追いながら、家康がどうやって最後に勝ち残ったかを描きます。小学校中学年から。

横山光輝の『徳川家康』

徳川家康は、『三国志』で知られる横山光輝さんが、山岡荘八さんの長い歴史小説を漫画にしたシリーズです。人質時代から最期までを、何巻もかけてじっくり描きます。絵が読みやすく、中学生から。

もっと深く:コテンラジオで聞く

夕方、車の後部座席で館山中の制服を着た中学生がイヤホンで歴史のポッドキャストを聞き、頭の上に鎧の武士や着物の女性、城の場面が浮かんで、目を輝かせている挿絵

コテンラジオ(COTEN RADIO)は、歴史が大好きな深井龍之介ふかいりゅうのすけさん・ヤンヤンさんと、歴史が苦手な樋口さんの3人が、1人の人物を何回にも分けてじっくり語る歴史のポッドキャストです。教科書では1行で終わる出来事の裏にある、人間くさい話が聞けます。

家康には、豊臣秀吉と2人で1つの「秀吉・家康編」という全12回のシリーズがあります(2024年7〜9月配信)。家康の生い立ちと、生まれた三河の土地の話は1回目。関ヶ原の戦いの前後が8・9回目、戦いのあとの国の治め方が10回目、大坂の陣が11回目、江戸幕府のしくみが固まるまでが12回目で聞けます。この前の「織田信長編」から続けて聞くと、信長・秀吉・家康の3人がひと続きの話になります。

まずは1回目だけ聞いてみてください。おもしろければ、次の回が勝手に聞きたくなります。

聞くなら Voicy(アプリでもブラウザでも聞けます)がおすすめです。YouTube のように次のおすすめ動画が画面に出てこないので、気が散らずに話だけを追えます。ほかのアプリで聞くなら、Apple Podcasts/Spotifyでも聞けます。

音だけなので、通学の車の中や、寝る前の時間にそのまま聞けます。画面を見なくていいのが、ラジオのいいところです。

負けた記録が、次の勝ちになる

朝の台所のテーブルで、館山中の制服の中学生がタブレットの問題を解き、前に間違えた問題が今度は解けて、はっと目を見開いている。「×の問題が、次の得点になる」の文字。

家康の一生をふり返ると、勝った戦より、負けた日や待っていた時間のほうがずっと長いことに気づきます。その時間に家康がしていたのは、負けを読み返し、先輩の記録を読み、体を整えることでした。

テストも同じです。×がついた問題は、いちばん役に立つ記録です。○の問題は、もうできる問題。×の問題だけが、次に点を伸ばせる場所を教えてくれます。

まなぶ君の一問一答は、×をつけた問題が、その日のうちにもう一度出てくるしくみになっています。△の問題は次の日に。○になっても、日をあけてもう一度○にできたら、やっと「覚えた」になります。まなぶ君を使っていれば、自動的に「負けた問題を読み返す」やり方になります。

今日の記事に出てきた関ヶ原の戦いや江戸幕府も、歴史の一問一答で解いてみてください。×をつけるのは、負けではありません。次の勝ちの準備です。

この記事を書いた人

小池哲平のアバター 小池哲平 ランゲージ・ラボラトリー塾長

ランゲージ・ラボラトリー塾長、東進衛星予備校 館山校オーナー。安房郡白浜町(今の南房総市白浜町)に生まれ、白浜中から安房高校へ。高2で学年82人中81位まで落ちたところから、浪人して慶應義塾大学経済学部に合格しました。リクルートで4年働いたあと2011年に1993年開校の塾を先代から引き継ぎ、2015年から館山で小中学生を教えています。2026年卒の中学3年生は30名中8名が学年1位。志学館高校のSS特待には3年続けて合格者を出しています(2024年4名・2025年5名・2026年6名)。東進館山校は2026年の共通テストで平均+218.4点(千葉県内1位)。館山・南房総の高校入試を、塾で見てきた事実と数字で書いています。
塾長のプロフィール ランゲージ・ラボラトリーについて

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