\24時間OK/
\平日9-16時 土日祝9-18時/
\無料、お気軽に!/


ランゲージ・ラボラトリーの小池です。
※この記事にはアフィリエイトリンクを含みます。
西郷隆盛の記事で、「安政の大獄」のところに1行だけ出てきた名前があります。吉田松陰です。教科書でも、だいたい「処刑された人」として1行で終わります。
でも松陰のすごさは、そこではありません。牢屋に入れられても、家から出るのを禁じられても、松陰のいるところはいつの間にか学校になっていました。
| 年 | いた場所 | していたこと |
|---|---|---|
| 1830年 | 萩(長州藩、今の山口県) | 生まれる。おじの家を継ぎ、兵学(いくさの学問)の先生の家の子になる |
| 1840年 | 萩 | 数え11歳で、藩主の前で兵学の講義をする |
| 1851〜53年 | 東北・江戸など | 日本じゅうを歩き、学者をたずねて回る |
| 1854年 | 下田(今の静岡県) | ペリーの船に乗り込もうとして、捕まる |
| 1854〜55年 | 萩の野山獄 | 囚人どうしで教え合う勉強会を開く |
| 1855〜58年 | 萩の実家と松下村塾 | 身分を問わず、若者とともに学ぶ |
| 1858〜59年 | 野山獄から江戸の牢へ | 老中を襲う計画で、ふたたび牢へ。江戸で処刑される(満29歳) |
場所の列を見てください。旅先、牢、実家、小さな塾。松陰はどこに置かれても、そこで学び、そこで人と教え合いました。今日はその話を、牢の中の勉強会を中心に書きます。


松陰は、とにかく先に動く人でした。
21歳のとき、友だちと東北を旅する約束をします。ところが出発の日になっても、藩の旅の許可証が届きません。松陰は約束を守るほうを選び、許可のないまま藩を抜けて(脱藩)旅に出ました。帰ってきてから罰を受け、武士の身分を取り上げられています。
1853年、ペリーの黒船が浦賀に来ます。松陰は、外国のことを自分の目で学ばなければ日本は守れないと考え、当時は死罪にもなる海外への密航を決めました。
1854年、ペリーの船がふたたび来て、伊豆の下田に泊まっていたときのこと。松陰は弟子の金子重之輔と2人で夜の海に小舟をこぎ出し、黒船に乗せてくれと頼みました。答えは「乗せられない」。2人は岸へ戻されます。









ヒント:逃げることも、隠れることもできました。
答えは、自分から下田の役所に名乗り出た。
国の決まりを破ったことを隠さず、なぜ外国へ行こうとしたのかを堂々と話したといわれます。2人は江戸の牢に入れられたあと、ふるさとの萩へ送られました。
江戸へ送られる途中、松陰はこんな歌をよんだと伝わっています。
かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂
こうすればこうなる(捕まる)と分かっていた。それでも、やらずにはいられなかった。









準備がそろうのを待たずに、まず動く。小池がいちばん大事にしていることの1つです。松陰はそのうえで、動いた結果からも逃げませんでした。
萩に戻った2人は、別々の牢に入れられます。武士の松陰は野山獄。身分の低い金子は、町人や農民を入れる岩倉獄。金子はその牢で病気になり、翌年に亡くなりました。身分で入る牢まで分けられる時代だったのです。
1853年、アメリカのペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、開国を求めた。
1854年、幕府は日米和親条約を結び、下田と函館の2港を開いた。これにより、鎖国の体制はくずれた。


野山獄は、罪を犯した武士を入れる牢です。何年も、中には何十年も出られずにいる人がいて、だれも先のことを考えない、どんよりした場所だったといわれます。
松陰はそこで、まず本を読みました。1年2か月の間に読んだ本は、600冊以上。そして、読んだ本の話を囚人たちにし始めます。









ヒント:囚人の中に、書道の名人と、俳句の名人がいました。
答えは、得意なことを教え合う勉強会。
| 先生 | 教えたこと |
|---|---|
| 吉田松陰 | 『孟子』(中国の思想の本)の講義 |
| 富永有隣 | 書道 |
| 吉村善作 | 俳句 |
松陰は、書道や俳句が上手い囚人に「私にも教えてくれませんか」と頼み、自分が生徒になりました。かわりに自分は、孟子の話をする。教える人と教わる人が、入れかわりながら続いていったのです。
勉強会を続けるうちに、牢の空気はがらりと変わり、囚人たちはおたがいに磨き合って過ごすようになったといわれます。牢の見張り役まで、松陰の講義を聞きに来るようになりました。
このときの孟子の講義は、『講孟余話』という本になって今も残っています。









松陰のすごいところは、先生になったことより、囚人に「教えてください」と頭を下げたことだと小池は思います。教わる人がいるから、教える人も育つ。


1855年の暮れ、松陰は牢から出されます。ただし、実家から出てはいけないという条件つきでした。
すると今度は、実家の小さな部屋が教室になります。家族や近所の若者に、牢でしていた孟子の講義の続きを始めたのです。聞きに来る人が増え、おじの玉木文之進が開いていた塾の名前を受け継いで、松下村塾になりました。
塾の建物は、たった8畳ひと間。人が増えて、あとから10畳半を建て増ししています。
| 松下村塾のやり方 | どういうことか |
|---|---|
| 身分も年齢も問わない | 武士の子も、足軽の子も、農民の子も、同じ部屋で学んだ |
| 数人のグループで読む | それぞれの興味や進み具合に合わせて、本を読み、議論した |
| 教えるのではなく、ともに考える | 松陰も塾生と一緒に考え、意見をぶつけ合った |
牢で見つけたやり方を、そのまま塾にしたように見えます。先生が上から教えるのではなく、みんなで考え、教え合う。
松陰が塾生を教えたのは、実家での講義から数えても2年あまり。松下村塾で学んだ人は、92人いたと伝わります。









ヒント:日本の総理大臣は、1885年に初めて生まれました。
答えは、2人。初代の総理大臣になった伊藤博文と、山県有朋です。
| 塾生 | 生まれ | その後 |
|---|---|---|
| 高杉晋作 | 長州藩の武士 | 身分を問わない兵の隊「奇兵隊」をつくる |
| 久坂玄瑞 | 藩の医者の家 | 松陰に高く買われ、松陰の妹と結婚。幕末の長州を引っぱる |
| 伊藤博文 | 農民の子 | 初代の内閣総理大臣。憲法づくりの中心になる |
| 山県有朋 | 身分の低い武士 | 総理大臣。徴兵令など、軍のしくみをつくる |
農民の子が、のちに日本で最初の総理大臣になりました。身分を問わない塾でなければ、伊藤は松陰に学ぶこともできませんでした。









高杉の奇兵隊は、武士でない人も入れる軍隊。身分を問わない松下村塾のやり方が、塾の外に広がった形だと小池は思います。
長州藩の吉田松陰は、萩の松下村塾で高杉晋作・伊藤博文らを教えた。
高杉晋作は、武士だけでなく農民や町人も加えた奇兵隊をつくった。


1858年、幕府の大老・井伊直弼が、朝廷の許しを待たずにアメリカと日米修好通商条約を結びます。松陰はこれに激しく怒りました。
ここからの松陰は、ぼかさずに書きます。松陰は仲間17人と血判を押し、京都で反対派を取りしまっていた老中・間部詮勝を襲う計画を立てました。今の言葉で言えば、暗殺の計画です。江戸にいた弟子の高杉や久坂でさえ、「今はまだ早い」と止める手紙を送ったといわれます。
計画を知った藩は、松陰をふたたび野山獄に入れます。1859年、幕府の命令で江戸へ送られ、取り調べで自分から計画のことを話しました。判決は死罪。その年の10月27日、江戸・伝馬町の牢で処刑されます。満29歳でした。
処刑の前の日、松陰は牢の中で『留魂録』という遺書を2通書いています。1通は萩の弟子たちへ。もう1通は、同じ牢の囚人に託しました。その囚人が何年もたってから弟子に届けた1通が、今も残っています。
最後の最後まで、松陰は牢の中でも人とつながっていました。









暗殺の計画は、正しいとは言えません。弟子にさえ止められた、行きすぎた面です。それでも松陰が今も慕われるのは、過激さではなく、どこにいても人と学び合う場をつくったからだと小池は思います。


1858年、大老の井伊直弼は、朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約を結んだ。反対する大名や公家、武士たちをきびしく処罰し、長州藩の吉田松陰らが処刑された(安政の大獄)。
1860年、井伊直弼は江戸城の桜田門の外で暗殺された(桜田門外の変)。


野山獄の勉強会で、いちばん得をしたのはだれだったか。小池は、教えた側だと思っています。
人に説明しようとすると、「あれ、ここ、なんでこうなるんだっけ」と詰まるところが必ず出てきます。詰まったところが、分かったつもりだったところです。教えることは、自分の穴を見つけるいちばんの近道です。
今日、そのまねをしてみます。
野山獄のまね:得意の交換
友だちと、得意な教科を1つずつ交換してみてください。
たとえば、数学が得意な友だちに図形の問題を教わり、かわりに自分は英語の文法を説明する。
松陰と囚人たちのように、先生と生徒が入れかわります。









説明が下手でもかまいません。詰まったら、それが今日の収穫です。






松陰と塾生たちのことをもっと知りたくなったら、漫画が近道です。
コミック版 日本の歴史 幕末・維新人物伝 吉田松陰と高杉晋作は、松陰の一生と、その弟子・高杉晋作の一生を1冊で追える学習まんがです。師匠と弟子の2人を続けて読めるので、松下村塾が幕末をどう動かしたかがつながります。小学校中学年から。
松かげに憩うは、松下村塾を舞台に、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文たち塾生と松陰の日々を描く漫画です。教育とは何か、どう生きるかを、塾生の目から描いています。青年漫画なので、中学生以上。




コテンラジオ(COTEN RADIO)は、歴史が大好きな深井龍之介さん・ヤンヤンさんと、歴史が苦手な樋口さんの3人が、1人の人物を何回にも分けてじっくり語る歴史のポッドキャストです。教科書では1行で終わる出来事の裏にある、人間くさい話が聞けます。
吉田松陰には、番組でいちばん最初のシリーズ「吉田松陰編」があります(全4回、2018年11月〜2019年1月配信)。1回は13〜16分ほどと短く、4回合わせても1時間ほどです。この記事の場面は、1回目で脱藩した理由、3回目でペリーの船に乗り込もうとした場面が聞けます。2回目の題名は、まわりの人を変えていく松陰の「感化力」です。続けて聞くなら、松陰の弟子を主人公にした「高杉晋作編」(全10回)もあります。
まずは1回目だけ聞いてみてください。おもしろければ、次の回が勝手に聞きたくなります。
聞くなら Voicy(アプリでもブラウザでも聞けます)がおすすめです。YouTube のように次のおすすめ動画が画面に出てこないので、気が散らずに話だけを追えます。ほかのアプリで聞くなら、Apple Podcasts/Spotifyでも聞けます。
音だけなので、通学の車の中や、寝る前の時間にそのまま聞けます。画面を見なくていいのが、ラジオのいいところです。


松陰に与えられたのは、牢と、実家の小さな部屋と、8畳の塾でした。どれも、立派な学校ではありません。それでも、そこに人がいて、教え合えば、学びの場になりました。
皆さんにも、家の食卓、塾の机、友だちとの帰り道があります。説明する相手がいれば、そこが学びの場です。
まなぶ君で勉強するときも同じです。解説を読んで「なるほど」と思ったら、画面から目を離して、その解説を自分の言葉で言えるか試してみてください。言えたら本物。詰まったら、もう一度だけ読む。それだけで、読んで終わりの勉強とは残り方がまるで違います。
まなぶ君の歴史の一問一答には、日米修好通商条約や安政の大獄の問題もあります。今日の松陰を思い出しながら解いて、1問だけでいいので、だれかに説明してみてください。



ランゲージ・ラボラトリー塾長、東進衛星予備校 館山校オーナー。安房郡白浜町(今の南房総市白浜町)に生まれ、白浜中から安房高校へ。高2で学年82人中81位まで落ちたところから、浪人して慶應義塾大学経済学部に合格しました。リクルートで4年働いたあと2011年に1993年開校の塾を先代から引き継ぎ、2015年から館山で小中学生を教えています。2026年卒の中学3年生は30名中8名が学年1位。志学館高校のSS特待には3年続けて合格者を出しています(2024年4名・2025年5名・2026年6名)。東進館山校は2026年の共通テストで平均+218.4点(千葉県内1位)。館山・南房総の高校入試を、塾で見てきた事実と数字で書いています。
塾長のプロフィール ランゲージ・ラボラトリーについて