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ランゲージ・ラボラトリーの小池です。
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坂本龍馬と聞くと、多くの人は薩長同盟を思い浮かべます。教科書にも「坂本龍馬らの仲立ちで」と1行出てきます。
でも小池がいちばんすごいと思うのは、そこではありません。龍馬は、江戸で何年も剣術を学んだ剣の達人でした。それなのに、刀にこだわらなかった。時代が変わると、ピストルに、船と商売に、そして法律に、あっさり持ちかえていきました。
今日は、龍馬の「持ちかえる力」の話をします。


龍馬は1836年、土佐(今の高知県)に生まれました。家は郷士という、武士の中では低いほうの身分です。ただ、親戚に才谷屋という大きな商家があり、暮らしは豊かでした。
子どものころは泣き虫で、通っていた塾も長続きしなかったと伝わっています。そんな龍馬が夢中になったのが剣術でした。
1853年、17歳の龍馬は江戸に出て、千葉定吉の道場で北辰一刀流を学びます。1858年には、修行の段階を認める「目録」という免状を受けました。
※龍馬は「免許皆伝(流派の技をすべて伝えられた)」とよく書かれますが、今残っている免状は北辰一刀流の長刀(なぎなた)の目録です。それでも、何年も江戸で修行を続けた本物の剣士だったことは確かです。
この1853年、江戸の近くの浦賀に、ペリーの黒船がやってきます。龍馬は父への手紙に、「戦になったら、異国人の首を取って帰ります」という意味のことを書いています。
1853年、アメリカのペリーが浦賀(神奈川県)に来航し、開国を求めた。翌1854年、幕府は日米和親条約を結び、下田と函館を開いた。
外国を打ち払おうとする攘夷の考えと、天皇を尊ぶ尊王の考えが結びつき、尊王攘夷運動が広がった。
このころの龍馬は、まだ「剣で外国を追い払う」側の人でした。ここを覚えておいてください。







龍馬は、生まれつき柔らかい考えの人だったわけではありません。はじめは、その時代の「当たり前」のど真ん中にいました。


1861年、龍馬は土佐で、尊王攘夷をかかげる土佐勤王党に加わります。
ところが翌1862年、龍馬は土佐藩を脱藩します。脱藩とは、藩の許しなく藩を出ること。重い罪で、家族にも迷惑がかかります。それでも龍馬は、土佐の中にいるだけでは何も変えられないと考え、外に出ました。
同じ年の暮れ、龍馬は幕府の役人・勝海舟を訪ねます。勝は1860年に咸臨丸で太平洋を渡り、アメリカを自分の目で見てきた人です。同じ船には、福沢諭吉も乗っていました。
このとき龍馬は「開国を説く勝を斬るつもりで会いに行った」という話が有名です。ただしこれは、のちに勝本人が語った話で、話を大きくしている、記憶ちがいだという見方が強く、本当かどうかは分かりません。
確かなのは、龍馬が勝の話を聞いて、勝の弟子になったことです。世界はどれだけ広いか。外国と渡り合うには海軍がいる。藩どうしでいがみ合っている場合ではない。龍馬は、少し前まで「追い払え」と思っていた相手の考えを、まるごと受け取りました。
ここが龍馬のすごいところです。「開国を説くやつはけしからん」という思い込みだけで動かず、相手の話の中身をちゃんと聞いた。そして、メンツや立場、仲間や先生がどう考えているかではなく、自分の頭で考えて、態度を変えたのです。
皆さんはどうでしょう。「みんながそう言っているから」「あの人は苦手だから」で、相手の話を聞く前に決めつけていないでしょうか。一度、最後まで話を聞いてから自分で決める。それだけで、見える世界は変わります。
この「思い込みにとらわれない」力が、このあと刀をピストルに、ピストルを法律に持ちかえていく龍馬の土台になります。







ヒント:「日本で◯◯の人物」。かなりの言いようです。
答えは、「日本第一の人物」。1863年、龍馬は姉の乙女への手紙に、日本第一の人物・勝海舟の弟子になったと、うれしそうに書いています。
攘夷の側にいた人が、開国を説く勝を日本一と呼ぶ。考えを変えることを、龍馬は少しも恥ずかしいと思っていませんでした。
龍馬は勝のもとで、船の動かし方を学びます。剣の次に龍馬が手にした道具は、「船」でした。


龍馬には、こんな話が伝わっています。
土佐の剣術仲間が、自分の長い刀を自慢しました。龍馬は短い刀を見せて「これからは、これのほうが役に立つ」。仲間が短い刀に変えると、今度はピストルを取り出して「これからは、これだ」。仲間がピストルを手に入れると、龍馬は1冊の本を出して言いました。「これからは、万国公法だ」。
万国公法とは、国と国とのあいだの決まり、今でいう国際法の本です。
※この話は後の時代に伝わる逸話で、本当にあった出来事かどうかは確かめられていません。
ただ、龍馬が実際にやったことを並べると、この逸話はまさに龍馬そのものです。
| 道具 | 龍馬が実際にやったこと |
|---|---|
| 刀 | 1853年から江戸の千葉道場で北辰一刀流を学ぶ |
| 船 | 1863年ごろ、勝海舟のもとで船の動かし方を学ぶ |
| ピストル | 1866年、京都の寺田屋で幕府の役人に囲まれたとき、高杉晋作からもらったピストルで応戦して逃げのびる |
| 商売 | 1865年、長崎で亀山社中をつくり、船で物を運んで商売をする |
| 法律 | 1867年、船の事故の話し合いで、万国公法をもとに相手の責任を問う |
自分が何年もかけて身につけたものほど、人は手放せません。「せっかく練習したのに」と思うからです。龍馬は剣の達人だったのに、刀にしがみつかなかった。時代に合う道具が出てきたら、さっと持ちかえました。
新しい道具を早く取り入れた人といえば、戦国時代の織田信長もそうでした。信長は、まだ多くの武将が刀と弓と槍で戦っていたころに、鉄砲をたくさんそろえています。
1867年、龍馬たちの船「いろは丸」が、紀州藩(今の和歌山県)の大きな船とぶつかって沈みました。紀州藩は、徳川家の親戚にあたる強い藩です。龍馬は刀を抜かず、万国公法を持ち出して「ぶつかった責任は紀州藩の船にある」と話し合いました。







ヒント:「両」は江戸時代のお金の単位。千や万ではなく……
答えは、およそ7万両。はじめは8万3千両あまりで話がまとまり、のちに7万両に下がりました。
小さな会社のような集まりが、大きな藩からつぐないを勝ち取ったのです。武器は刀ではなく、決まりと話し合いでした。




1865年、龍馬は仲間と長崎に亀山社中をつくります。船で物を運び、商売でお金を生む集まりで、日本で最初の会社ともいわれます。のちに名前を海援隊に変えました。
そのころ、薩摩藩と長州藩は敵どうしでした。1864年には、京都で戦ってもいます。でも、どちらも幕府を倒せるだけの力を持っていました。
そこで龍馬たちは、薩摩藩の名前で外国から武器や船を買って、長州藩に渡す手伝いをします。長州は幕府ににらまれていて、自分では買えなかったからです。手を組むと得をすることを、話より先に商売で見せたのです。
1866年1月、京都で薩摩と長州が手を結びます。龍馬はその場に立ち会い、のちに長州の木戸孝允に頼まれて、約束の中身を書いた手紙の裏に「まちがいない」と書き添えました。この手紙は今も残っています。
1866年、坂本龍馬らの仲立ちで、薩摩藩と長州藩が同盟を結んだ(薩長同盟)。これにより、幕府を倒そうとする動きが強まった。
このとき龍馬が手を結ばせた薩摩藩の中心にいたのが、西郷隆盛です。西郷の側から見た幕末は、こちらの記事に書きました。


1867年6月、龍馬は土佐藩の後藤象二郎と船で京都へ向かう途中、新しい国のかたちを8つにまとめたといわれます。これが「船中八策」です。
※八策のうち6つを中学生向けに言いかえました。船中八策は原本が残っておらず、後から作られた話だと考える研究者もいます。ただ、同じ年の秋に龍馬が自分の手で書いた「新政府綱領八策」は残っていて、似た考えが書かれています。
この考えは後藤から土佐藩の前の殿様・山内容堂に伝わり、容堂が将軍に「政権を朝廷に返すように」と勧めました。そして1867年10月、15代将軍の徳川慶喜は、政権を朝廷に返します。
1867年、15代将軍の徳川慶喜は、政権を朝廷に返した(大政奉還)。同じ年、朝廷は王政復古の大号令を出し、天皇を中心とする新しい政府をつくることを宣言した。
剣の達人が最後に選んだのは、刀を抜かずに時代を動かすやり方でした。
大政奉還からおよそ1か月後の1867年11月15日、龍馬は京都の近江屋で、中岡慎太郎とともに襲われて亡くなりました。31歳でした。龍馬は、自分が描いた新しい国を見ることはできませんでした。







敵だった相手と組む。考えを変える。持っていた道具を手放す。どれも、先入観があるとできません。龍馬のすごさは、剣の腕より、そこにあると小池は思っています。


龍馬のまねは、刀がなくてもできます。皆さんにも、何年も続けてきた「剣」があります。慣れた勉強のやり方です。
| いつものやり方(剣) | 持ちかえてみる道具 |
|---|---|
| ノートをきれいにまとめる | 先に一問一答で解いて、✕だったところだけノートに書く |
| 英単語を1つ10回ずつ書く | 日本語を見て英語が言えるか確かめ、言えない単語だけ書く |
| 教科書を何回も読む | 教科書を閉じて、覚えていることを白い紙に書き出す |
| 分からない問題をずっと考える | 10分考えて分からなければ、解説を読んでから解き直す |
どれも「今のやり方がダメ」という話ではありません。龍馬の剣の修行がむだでなかったように、慣れたやり方にも意味があります。ただ、もっといい道具があるなら、一度は持ってみる。それが龍馬のやり方です。







持ちかえて、だめなら戻せばいい。試さないまま「いつものやり方」を守り続けるほうが、ずっともったいないです。


龍馬をもっと知りたくなったら、漫画と小説が近道です。龍馬は、数えきれないほどの物語の主人公になっています。







小池にとって、龍馬は人生の指針になった人です。漫画の『お~い!竜馬』を読んで、「竜馬みたいになりたい」と本気で憧れました。
『お~い!竜馬』は、泣き虫だった子ども時代から、江戸の剣術修行、脱藩、勝海舟との出会い、亀山社中、そして近江屋まで。龍馬の一生を通して読めます。この記事で出てきた場面が、次々に絵で出てきます。
中学生から。小池のおすすめは中2までに読むこと。歴史の授業で幕末に入る前に読んでおくと、教科書の1行が物語になります。
『竜馬がゆく』は、今の「龍馬のイメージ」を決めたといわれる歴史小説です。龍馬の明るさ、身軽さが、これでもかというほど描かれています。
小説なので、作者が想像で書いた場面もたくさんあります。司馬遼太郎は主人公を「竜馬」と書いて、本当の龍馬と分けています。読書が好きな中学生なら読めます。
『JIN―仁―』は、現代の医者が幕末の江戸にタイムスリップし、医学で人を救っていく物語です。龍馬は、主人公を支える大事な人物として出てきます。手術の場面があるので、中学生から。
どれも物語なので、本当はどうだったかは教科書で確かめてください。そのひと手間が、いちばんの勉強です。




コテンラジオ(COTEN RADIO)は、歴史が大好きな深井龍之介さん・ヤンヤンさんと、歴史が苦手な樋口さんの3人が、1人の人物を何回にも分けてじっくり語る歴史のポッドキャストです。教科書では1行で終わる出来事の裏にある、人間くさい話が聞けます。
坂本龍馬が主役のシリーズは、まだありません。そこでおすすめするのが『西郷隆盛編』(全16回)です。龍馬が手を結ばせた薩摩藩の側から、幕末をまるごと聞けます。龍馬が出てくるのは6回目「“戦い”から“対話”へ!幕臣 勝海舟との対峙」。勝海舟の考えの大きさ、薩摩と長州が手を結ぶ場面、そして中岡慎太郎と坂本龍馬の活躍が語られます。続く7回目は、大政奉還の裏側の話です。
龍馬の場面だけ聞きたいなら6回目から。おもしろければ、1回目に戻って西郷の子どものころから聞いてみてください。
聞くなら Voicy(アプリでもブラウザでも聞けます)がおすすめです。YouTube のように次のおすすめ動画が画面に出てこないので、気が散らずに話だけを追えます。ほかのアプリで聞くなら、Apple Podcasts/Spotifyでも聞けます。
音だけなので、通学の車の中や、寝る前の時間にそのまま聞けます。画面を見なくていいのが、ラジオのいいところです。


龍馬の話は、そのまま勉強に使えます。慣れたやり方にしがみつかず、いい道具があれば持ちかえる。
まなぶ君には、上の「やってみよう」で出てきた持ちかえが、はじめから入っています。
| 持ちかえたやり方 | まなぶ君では |
|---|---|
| 解いて、✕だけやり直す | 一問一答で✕だった問題が、先に回ってくる |
| テストに出るところからやる | 学校のテスト範囲に合わせて、単元が出てくる |
| 年号を覚える | 歴史の問題に年号が出てくると、ゴロ合わせが表示される |
まなぶ君を使っていれば、自動的にこのやり方になります。紙のノートや学校ワークは学校と自習室で流れをつかむために、まなぶ君は家とすき間時間で思い出す練習に。どちらも「✕だけやる」は同じです。
まずは今日の記事に出てきた、1866年の薩長同盟と1867年の大政奉還。まなぶ君の一問一答で確かめてみてください。
剣を極めた人ほど、剣を置ける。皆さんも、まず1つ持ちかえてみよう。




ランゲージ・ラボラトリー塾長、東進衛星予備校 館山校オーナー。安房郡白浜町(今の南房総市白浜町)に生まれ、白浜中から安房高校へ。高2で学年82人中81位まで落ちたところから、浪人して慶應義塾大学経済学部に合格しました。リクルートで4年働いたあと2011年に1993年開校の塾を先代から引き継ぎ、2015年から館山で小中学生を教えています。2026年卒の中学3年生は30名中8名が学年1位。志学館高校のSS特待には3年続けて合格者を出しています(2024年4名・2025年5名・2026年6名)。東進館山校は2026年の共通テストで平均+218.4点(千葉県内1位)。館山・南房総の高校入試を、塾で見てきた事実と数字で書いています。
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